2留大学生(元)の考えている事

1浪・1留はたくさんいても2留以上は滅多にいない。珍しいこの存在がどんな事を考えているのか。

お酒こそが現実を見つめる力となりえる

よくお酒は現実逃避と言われるけども果たして本当なのだろうか。ウマル・ハイヤームはこの世の無常さや残念さを嘆き、だからとりあえずお酒飲もうと言うような、これだけ見るとダメ人間な内容の詩を書いていた。しかし、彼の行動はむしろ生そのものに真剣に向き合ったからこそ出て来た強い諦めであり、どの詩を読んでも最後はお酒に行きつく事からお酒に諦めの中での希望のような物を見出したのだろう。頭だけで考えてくと結局は全ての行動をストップする事により餓死して後は自然の法則で肉体は散らばっていくのを良しとするしかないが、お酒はこの頭を麻痺させて「今ここに」意識を持って行く。詩の中にあるようにお酒を飲みつつ美少年を侍らせて大騒ぎしてたら生と死、意識について、時間について、産まれる前、死んだ後、みたいな物について考えられるわけが無いのである。この考えられない状態(考えない状態)こそがいわゆる普通の人であり、どんなに頭がニヒリズムに持って行かれていてもお酒を飲めば一時的にだけ普通になれるんだから本当にすごいと思う。

現実逃避と言うのもよく分からない。ここで指してる現実は人を通した世界であり、イデアだの物自体の事ではないのは分かる。生きてる間はあらゆる器官でもって世界を認識してるんだから逃避は出来ないのではないか?シラフでも酔っていても確かに見え方は違うがしっかり認識している。これがダメなら視力1.0の人と0.1の人はお互いにお前は現実が見えてないと争う事になるので、結局は個人個人の解釈で現実は違うと言う定番の話になってしまう。

でも、この解釈と言うのも厄介で、解釈次第ならば誰かが人を殴ろうがお金を横取りしようが、解釈でそれをダメだと判断してるだけです!となったら世界はとんでもない事になる。でも実際にインターネットやテレビ、自己啓発本などで、どんな問題も「解釈を変えればOK」のような考えが明らかに広まってきているのでもう破滅に近づいているけど。パワハラ上司や暴走する権力を、指摘してくれるだけありがたい、彼らは頑張ってるんだからみたいに解釈を変えるのは砂漠の真ん中でオアシスの蜃気楼を自力で見るような行為だと思う。少し移動すれば本物のオアシスがあるかもしれないし、太陽熱で水を集めたり、何なら植物の種を植えて自力でオアシスを作れるかもしれない。でも、これを諦めて蜃気楼の中で砂を水と思い込みごくごく飲んだり、アリジゴクを池と思い込み飛び込んだりするような事っておかしくないか?ブラック企業に洗脳されてた人がついに肉体が限界になり途端に目が覚めるような話があるが、今まで水だと思ってたものが灼熱の砂だと気づいた時のショックはどれくらいだったのだろう。

他人を変えるより自分を変えろとはよく言われるが、むしろ逆で他人を変えようとして最終手段で渋々自分を変えるの方が健全だと思う。僕の場合は本当に自分を変える必要がありますが。

元と全然話変わってるし、どうも解釈の話や認識の話が整理がついてなくてごちゃ混ぜになってるな。