2留大学生(元)の考えている事

1浪・1留はたくさんいても2留以上は滅多にいない。珍しいこの存在がどんな事を考えているのか。

自殺出来ない=本当は死にたくない説は本当なのか?

パソコンを大学に忘れてしまい約1週間も更新が空いてしまった。こういう間抜けな事の積み重ねで遅刻や欠席などの無機的な仕組みでも不利になるし、人同士の付き合いのような有機的な仕組みでも問題が起こってしまうのだ。

ネット上では自殺をしようと思ったけど足場を蹴れなかった、手すりを乗り越えられなかった、薬と酒をたくさん飲んだが怖くなり知り合いや親に電話してしまった、みたいな自殺未遂体験談が山ほどある。何かのまとめサイトでもSNSでもそうだがこれに必ず付くコメントの1つに本当は死にたくなかったんだよ!。自殺出来なかった=生きたいと言う事なんだよ!がある。

この手の話は疑ったり中身を吟味せず、これを言ってくれた事自体に対する感謝や言葉の響きみたいなのが重要なのだが自分はどうしても疑ってしまう。生きるとか死ぬとかが絡むと途端に話が出来なくなったり、いきなり説教してきたり思考そのものを放棄する人が多いが、特に自殺なんて生きていないと行えない事なのだから、ご飯を食べるとかジョギングをする等と大きなくくりで見たら同じ領域なので、自殺について考えて見る事も別におかしく無いと思う。

何でこんな捻くれた事を考えだしたのかは僕が留年した事がきっかけだ。当然留年は体調不良や勉強不足や人間関係等の複雑な事柄の組み合わせでなってしまった事だが、単に卒業だけするなら勉強さえ出来ていれば何も問題は無い。しかし、去年や一昨年の僕は勉強しようと頭で思っていても何故か寝たきりかゲームをやってしまい(30分位しか集中が持たなかったけど)1日が終わっていた。そんな時に、勉強しようと頭で思っていても何故かゲームしたり掃除をやって1日が終わると自殺しようと思ったけど出来なかったは同じじゃないか?が突然頭に湧いてきて今では正にその通りだろうと考えている。「勉強しようと思ったけど出来なかった」は別に留年生でなくても9割以上の人は経験があると思う。その時の心情を思い出してほしい(今まさにその状況の人もいるかもしれない)。

「勉強しなきゃ…あーなんで俺ゲームやってるんだ」「落第になったらまずい。就活までに単位は一通り取っておきたいのに…」「赤点だったらお小遣い減らされる…」→その後勉強が不足していたのでテストはボロボロで意地悪な先生がみんなの前で「お前だけ赤点だぞ!」と大声で言いふらす。さて、この直後に誰かから勉強したくなかっただけなんだろ!と説教されたら間違いなく勉強する気持ちはあった!と反論したくなるだろう。

・何故か動けない自身への怒りや、これを行うか否かで発生する事はしっかり分かっているのにそれでも"何故か"勉強出来なかった

・自殺しようと思ったが"何故か"体が動かなかった

やっぱり同じだ。この"何故か"の"何故"に代入されているものがストッパーになっていて実行出来ないわけだ。この得体のしれないモノ=本当は死にたくない気持ちに結び付けるのは間違いなく実行しようとは考えていたのだから無理がある。

長くなったのでこの先の理由をざっくり書くと、頭で考えてる部分と体は別物だから実行出来なかったのだろう。雑に言えば飛んできた蠅は大して危険では無いと思っても咄嗟に回避するのと自殺できない事は同じで、本能が勝手に体を動かすから頭では全く反対の事を考えていても制御しきれないのだ。だから最初の言葉を書き換えるなら、

本当は(あなたの肉体は)死にたくなかったんだよ!。自殺出来なかった=(あなたの肉体は生存を最優先するようになってるから頭で考えてる事は無視して勝手に体を制御してまで)生きたいと言う事なんだよ!

が正しいだろう。肉体は魂の牢獄とか、理性で情動を抑えるとかとか古代ギリシャの話にもつながりそうですね。これと関連して頭で考えた事は実行できるはずみたいな理性の絶対視を理性では無く感情的に絶対視してる事についても書けそうだ。引きこもり問題なんて精神面で弱っているから頭ではまずいと思ってるのに動けない人が大多数だろうに。まだいくらでも書けそうだけどさすがに支離滅裂すぎる。思いついたことをそのまま書くスタイルだけどさすがに酷過ぎるからこれ位にしときます。

やっぱり言語って限界だらけ

言語化は情報を削ぎ落すと書いてきたが、そうであるなら言語を使いながら単に言葉の意味だけではなく読み上げた時のリズムやそこから想起するものが元の情報にどれだけ近づけるかが重要だ。「玉ねぎ、にんじん、じゃがいも」とパソコンを用いて明朝体で打ち込み印刷したメモだけ見ると「カレーライス」「肉じゃが」「オニオンスライス、馬の餌、ソラニンの分析」等と想起するものにバラつきが多く出る。だから表現方法を考えないと上手くいかない。

僕の目の前にある白いコップについて書く時に単に「白いコップが机に置いてある」だけでは全然足りない。かといって「数年使った少し灰色がかった内側に茶渋のついたコップ」等とどんなに言葉を継ぎ足しても目の前のコップそのものを表現できない。このコップそのもの(多分これがプラトンが初期から散々言ってる物そのものの話だと思う。イデア?それとは違うか)を表現も出来無いし、僕が五感で感じたこのコップに対する頭の中の像を表現するのに正攻法では無理なので、コップと言う単語を使わないほうがむしろ近づけることだってある。まずは僕の頭の中で特に何の役割としてコップが存在するかを考える事が重要だ。飲み物を入れる物が100%ではないだろう、もちろん時と場合でパーセンテージは変化するが紙の上に乗せる重石にもなれば、太陽光からの遮蔽物にもなる、マウスを動かす時の障害物にもなるし、ロウソク立てにもなる。太陽光からの遮蔽物としても東から昇って西に落ちる過程でコップの影は変化するので光から守りたいものを全ての時間で庇う事は出来ない。時間によってコップと太陽の強さの不等号は変化するし、真上から光を落す蛍光灯相手なら敗戦確実だ。

コップは飲み物を入れるための物として作られただろうがその役割を果たしている時間は圧倒的に少ない。お茶を入れて20時間放置とかは余程疲れてるか飲み忘れて外出でもしない限りは無いし、実際に飲み物が入ってる時間なんて1~2時間位だろう。他の時間は上に書いたとおりに重石の用途や、水切り籠や食器棚を飾るディスプレイとして存在する時間がほとんど。僕の場合は机に置いてる時間が長いし、風から紙を守る為に載せる事が多いからコップは重石としての役割が重要だし飲み物を入れる用途は2番目以降だ。

じゃあコップの事を「円柱状でくぼみがある重石」とでも呼ぶか?これでもコップをまとう雰囲気やオーラのような物を表現できない。そして、この雰囲気を本物に出来るだけ直接の説明なしに表現できる人が文豪と呼ばれるのだろう。俳句もそうかもしれない。松尾芭蕉の有名な「古池や蛙飛び込む水の音」も単に文字から読み取れる情報だけでなく彼が見た光景の雰囲気が何となくわかる。しかし、これも本物の雰囲気の情報では無く別系統から攻めていった結果似たような雰囲気になった、と言う方が正しい気がする。

挨拶とは何か

こんばんは!

挨拶に僕はずっと悩まされてきた。挨拶と言う行動自体に意味はあるが、こんにちはと言うとか手を振るとか挨拶で行う行動自体には意味が無いから何だか変な感じがしてどう扱って良いか未だに分からない。これの有無で即座にクズ認定されたり、これをするだけでどんなに仕事が出来なくとも嫌われまではしないとかよく見かけるが、たかが挨拶程度で評価が変わると言うのが本当に分からない。

挨拶はお互いがする事で敵意が無い事を証明し合う、と言った儀式行為らしいが逆に言えば「世のほとんどの人はデフォルトでは自分以外の人間を敵だと思ってる」と言う事だ。いやいや、むしろこの発想の方が攻撃的で怖くないか?僕は挨拶が有ろうが無かろうが、露骨に悪口を言ってくるとか殴ってくるとか無い限りは評価無し(0)なのだが、僕は今まで挨拶してこなかった人たちからは敵だと認識されていたわけだ。これを考えると高校時代の僕はほとんど挨拶してなかったから変人扱いされてたのだと今なら納得できる。

まあ別に変な奴扱いまでは良いとして、そこから虐めてやろうとか困らせてやろうと言うのは更に分からない。これが野生動物みたいにテリトリーの争いと言うなら分かるが、学校でも職場でもある程度は共同体という物が形成されていてこれの破壊はアウトである。挨拶をしない側も乱しているが、だからと言って排除にかかったら精神病になり引きこもって障害年金生活保護を受給したり、発狂して備品や機材を壊しにかかる事も十分ありえる。僕は生活保護等の社会保障は昨今の風潮と逆でどんどん手厚くするべきと考えてますが、それを負担する普通の労働者なり、予算を考えてる国からしたら出来れば減らしたいでしょう。減らしたいなら少しの我慢でそういう予備軍を保護しないといけません。おかしくなってしまったら結局は自分たちの仕事や負担が増えて面倒になるだけです。首尾よく綺麗に追い出してもそこからどんどん転落して行って最終的にニュースに乗るような大犯罪を起こされたらこれまた自分たちを追い詰める事になる。こう書くとどうしようもない人は丁重にもてなすべきと書いてるように思うでしょうが正にそうです。確かに不公平ですがかつてのように座敷牢だの口減らし等はNGとされる社会になっている以上は逆に全力で保護しなければ最終的には普通に頑張っている人に負担が出るのです。予防接種と同じで少しの痛みに耐える事で症状が軽くなる事を目指すのが今後目指していく社会です。

なんか全然違う話になった。またいつか書いてみよう。最後に関連リンクを貼っときます(こっちもまだ未完成だけど)

 

ryunen-daigakusei.hatenablog.jp

 

どうしようもない人を放置するのは正しいのか?-前半-

本屋では「バカとは関わってはいけない」「成長しない人とは縁を切れ」みたいな新書が大量に並び、ネットでも同様な話をよく見かけます。この風潮を考えるなら2留もするような僕はどうしようもない人に区分されるので周囲の人達は僕と縁を切る事が当然とまで行かなくても、極力関わらずに放置しておくことがベストになります。しかし僕はその風潮に反してどうしようもない人こそ助けてやらないとまずい事になると考えています。自分が以下に書くことは「要は俺を助けろと言ってるだけだろ」と思うでしょうが所がどっこい、彼らを助ける事は自分の身を守る安全対策なのです。

こちらは内閣府が今年の3月に行った生活状況に関する調査です。

生活状況に関する調査 (平成30年度) - 内閣府

これは引きこもりの長期化が見られることから今まで調べてこなかった40歳以上の引きこもりについて調査をしてみました、と言った内容です。その結果が中高年の引きこもりが約61万人、全体では100万人以上引きこもりが存在してるのではないかと言った恐ろしい推計が出てきました(調査結果を全て見るのは大変ですから以下に日経新聞の記事のリンクを貼ります)

www.nikkei.com

これは大々的に発表されたので覚えてる方も多いでしょうがこれを見て何を思いましたか?「いい歳してすねかじり」「こりゃ大変だ。国は何故放置したんだ」等々あるでしょうが、この人たちは自分と同じようにこの世に存在していて今も呼吸をしてるし、ご飯を食べトイレに行き本を読んだりゲームやったりパソコンをいじってると言う事を想像できましたか?自分の親や恋人や友人と同じくらい存在を意識できましたか?

まずは彼らが存在してる事をハッキリと認識しなければ問題は見えてきません。また、引きこもり=どうしようもない奴と僕が認識してるように思うかもしれませんが、引きこもりとは風邪をひいている等と同じで「状態の一種」です。風邪そのものはろくでもないですが感染者自身がバカだとか劣ってると思う人はいないでしょう。それと同じで引きこもりは多種多様な原因の積み重ねで"なってしまった"("なった"では無く受動的な"なってしまった"です)だけなので、引きこもりの方の人格等を貶めるわけではありません。引きこもり現象にいわば罹患してしまった状態をどうしようもない状態だと言うだけです。

話は戻りますが、100万人以上の人が今この瞬間も家に籠ってたまに散歩する位で、労働をして賃金を稼いでいないわけです。これがそのまま進むと彼らを養う親の死、もしくは貯金の枯渇によりろくに食事も出来ないような状態になるのは1秒考えれば分かるでしょう。ここまでは誰でも想像がつくし彼ら引きこもりだって分かってます。でも、この後の事を真面目に考えてる人は一気に少なくなります。

僕が凄く不思議に思うのは

引きこもり=人間のクズで自堕落で甘えてる存在

と世間では大多数の人が思ってるのに、そんな人達が自分の衣食住が脅かされたらどんな行動をするかを考えていない事が不思議でなりません。社会が受け入れてくれなくて何の恩恵も受けてないのだからこちらだって我慢はせずに犯罪も含めてありとあらゆる手段で生き延びるぞ!となる事は当然ありえますよね。(実際、引きこもりの人は世間で言われてるようなヤバい人は少ないと思いますが、どんな人でも窮地に陥ったら少々の倫理は外れてしまうので結果的に世間で言われてるようなヤバい人になりえます。)

そこまで考えずとも、引きこもり相手に何を世間では考えてるのか?を見ると「強制労働させる」「野垂れ死にさせる」みたいなのがネットでは大真面目にポンポンと出てきます。

いやいや、21世紀ですよ?仮にも先進国ですよ?何世紀前の考え方ですか?と思わず言いたくなる位彼らの人権を軽視してる考えだらけです。義務を果たさないと権利が云々とか言う人もいますが人権に関しては人として産まれて生きてる間は無条件で与えられてる物で、これを侵す事は許されません。だから彼らも当然生きていく権利があります。

 

後半では引きこもり含めて、どうしようもない人相手にはどうすればいいかを書いていきたいと思います。

 

記録と言語化の非可逆圧縮について

僕は非常に忘れっぽい上にメモに書いたらそれがどこかに行くし読んでも何が何だか分からない事が多い。記憶力さえあれば所詮は高校や大学辺りのペーパーテストは簡単だし、研究室だってやる事を覚えていれば実験を忘れて次までに3日間空白が出来てしまいこの間に気分が悪くなりズルズルと休んでしまうような事も起こりにくい。よほど最前線の分野で働いてるわけでも無ければ記憶力の大小が有能無能の差になると思う。

いきなり脱線したが、オンライン上にメモを残しておけば大停電でも起きない限りはスマホやパソコンからアクセス出来るので紙のメモ帳よりは忘れないと思ったので書いていきたい事はたまにリストアップしていこうと考えた。パソコン自体は確か小学1年生辺りからやってるので同年代の中では触ってる時間だけならベテラン級なのに、かなりのアナログ派なので調べ物や勉強は紙の本やメモ帳、ノート、折込チラシの裏ばかり使っていた。紙のメモの長所は手書きである事と場面記憶の両方の面からメモの内容を覚えやすい事だと思うが、よく考えたら記録と言う行為は脳への情報の固定では無く、外部への情報の固定と後の想起が目的なので自分が覚えて無くても後でメモを見る事さえ覚えていたらわざわざ内容を覚えなくていい。寝てる訳でもなければ思考は連続してる物なので例えばXについて記録しようと思っても、このXに至るまでにA,B,C…V,W,X,Y,Zと話の内容そのものは直接繋がって無くても、各内容のブロックが隣接してるので、より正確にXを想起したければ前後の流れを覚えておくのが良いだろう。これを紙で表現するとかなり大変だ。一番最初の記事でも書いたが頭に渦巻く情報を言語化した時点でかなりの情報がそぎ落とされてるので、言語化と言うのは非可逆圧縮である。だから言葉の羅列を見ても元の情報を再構築するのは完璧には出来ない。その中で僕は無意識に思いつくものを適当に羅列する事で少しでも情報が損なわれないようにしている(これが先のA,B,C…の話だ)。テスト勉強の時だってお腹空いたとか、この後何しようとかは絶対に考えているのでそういう事も書いておく事で当時の脳内を極力再現できる。

でもこれだって悪筆だから自分でも読めない事多いし、話が散らかってるから自分が普段どのパターンで脱線してるかも考える必要がある(意志そのものがどこかに行った後の抜け殻である表象の限界かもしれない)。

ここでようやくネット上に書くメモ(ブログやSNS)とwebブラウザの機能が登場する。頭で思った事と言うのは以下の2パターンだ。

  • 言葉を見た事でそこから思った事
  • 言葉以外(自然や音楽等)を見た事で思った事

※"見た"という表現を使ってるが五感それぞれと複合体の事であり視覚だけを指していない。言葉は点字もあれば朗読もある。自然だって森の中にいれば臭いも味もするし、音楽も何かが触れてるように感じる人もいるだろう。

普段からパソコンを使っている僕は頭で思う事も大体はネット経由の情報であるので、ネットと言う媒体を介したメモは当時の感覚を思い出すことに適しているし初めに書いたように基本的に消える事が無いので安心だ。そして、webブラウザの履歴機能は物によるが日付だけでなくアクセスした時間や回数まで記録している事が大きい。カレーライスの作り方について記録したいと思っても何故カレーライスの記録に至ったかの過程が分かればより当時の心境が分かるはず。そこで履歴を見直してみれば化粧水→懐中電灯→銭湯→牛乳→ノートパソコンの分解→カレーライス→ケチャップ→短歌→乾燥剤…のように見る事が出来るので、当時見ていたサイトを見直してみればそこに写ってる写真なり言葉を見て行った先にカレーライスを導出したのだと追認できる。と言ってもこれだって万能なわけでも無い。あくまでもブラウザの履歴で過去サイトを読めば当時考えた事の連続性が再現できると言うだけで、外を歩いていて考えた事等の記録には使えない。

これに関して文学や俳句についても書けそうな気もするがまだ記載できるほど頭の中でまとまってないからしばらく先になりそう。

反出生主義とは

前に反出生主義について考えてる事があると最後にチラッと書いていたことを思い出した。

 

ryunen-daigakusei.hatenablog.jp

反出生主義の定義っぽい物を書きますが現段階では各人がそれぞれ好き勝手言ってる状態なので共通している部分だけ書きます。

この世に産まれると確実に幸せになれるとは限らないし、運良く上手くいっていてもそれはずっとは続かないだろうし最後には老いや病に苦しみ死からも逃げられないのに産むとか酷過ぎる

これが定義です。正直言って反出生主義は当然と言えば当然ですが、もはや自分が産まれてる以上は自分の人生についてはどうしようも出来ないですね。反出生主義を自分は信じてるけど、正直一生かけてもこれを緻密な理論に出来るか分からないしそうでなければダメだから消極的な反出生主義だと僕の中では完結してる物です。そしてこれの実践は世界中で同時に武器を捨てれば平和になるとかいう話と同じで個人レベルであれば出来るでしょうが社会レベルだと難しいでしょう。

私が好きな人にシオランショーペンハウアーがいますが僕の中では反出生主義は彼らと似ていて産まれる事自体は嫌になってしまうけどそもそもがこの世の仕様自体が空しいから、産むことを否定する事自体も生きてる上での行為なのでこの否定行為自体も無為である。だけど言う機会あれば一応言っておこうかななんですね。別にどんな状態でも根本が空しいんですよ。集団でガヤガヤ会話してたのに何故か全く同じタイミングで会話が切れてシーンとなり「いや、何今の空気w」となった経験はあると思いますが、あの静まり返った一瞬の困惑とか疑問みたいなのが常に頭にあるんです。旨い物食べて思わずニッコリしても即座に「旨いなあ…でもそれが何なんだ?」と浮かぶし、逆に嫌な事あっても「何でこんな目にあうんだ…でもそれが何なんだ?」となるんです。そしてこの感覚は苦しみと言うよりかは空虚であるのでマイナスの意味は本来はありません。でも、この何かが足りないような感覚は「マイナス0」とでも言うべきで1とか2とか値は無いけど分類するなら0やプラス0では無くマイナスのくくりに入る感じです。

理屈に呑まれ過ぎてるとか懐疑論者の末路とか言われても仕方ないですし自分でも意味が分からず混乱しています。そしてここでも意味という単語を使ってるのでやはり意味に囚われ過ぎてるのでしょう。先に書いたシオランは似たような心境から出てる言葉を彼の著作でたくさん書いているので是非読んでみてください。

だから、ここ1~2年で急に反出生主義を名乗る人が増えてきて声高に色々言ってますが僕にはそんな気力無いです。そして一部ですが自分の人生の失敗を隠す為に反出生主義と言う最強の武器を使って子供を産んだ人・産む予定の人を攻撃してストレス解消してるように見えます。反出生主義の問題点(産まれる前は存在してないからこれを対象として議論は出来るのか、反出生は出生へのアンチテーゼとして出て来た話だが世界は人間で成り立ってるのでそこを根底に置きながら主張するのはズルくないか等々)の重要な弱点を提示した人に「オリジナル宗教の布教するな」「出生派の成り済まし」「インテリの言葉遊び」みたいな酷い言葉を吐きまくる"自称"反出生主義者がいた時はガッカリしました。確かに人生のマイナスは反出生主義に気が付くきっかけにはなりやすいですがそれを感情的に振り回すのは違うかなと思います。反出生主義そのもの自体への信仰もそうですし、死ぬ=無への信仰も多くこの世で確かな物を見つけたと錯覚して信じてる事は新しい神の創造であり、これは散々バカにされてる「子供を産みたいから産んだ。それがダメなの?」と同じ話なんですけどね。(僕も死んだら無になるのでは?と思ってますが何の確証も無いので死んだらどうなるかは保留中なのですがどうもこれが気になる。案外あの世があるかもしれないし永遠にこの世を徘徊するのかもしれないし僕自身が転生したり、色んな人の死んだ意識がリサイクル工場みたいに混ざって溶けて新しく意識が生み出されるのかもしれない)

僕自身考え付く事でも無や死そのものは体感出来る物でないのでこれの恩恵を受ける事はあるのか?転生があったとして無→有→無→…を繰り返すわけだが、例えば数十年昏睡してた人が回復したら一瞬で年寄になっていたけど自覚が無いように、無の期間がどれだけ長くても安寧は有って無いような物では無いか?じゃあ眠りとの違いは?記憶の連続性だとしてそれなら記憶喪失になればいいのか?意識という物があるからこんな話になってるわけだがDNAの塩基配列を総当たりで変異させて意識が無い人間が産まれたら話はどうなるか?コードされた遺伝子から情報をパソコンなどに読み込めるようになったら人工的に一瞬で大量の意識を生成できるのか?仮に全員が出生を辞めても無限に続く宇宙の中で新しく意識を持った生命体が出てくるのでは?もしビッグクランチとかで宇宙が消滅してもまたビッグバンで意識ある生命体がいつか出るんじゃないか?等々ハッキリ言って対象が対象だけに人類の全ての学問が関わってくるんじゃないかと言う位考える事が膨大にあります。このブログを始める前にノートとか昔のスマホメモとかに思いついた文章が書いてましたが頭の中から出力できた物は僅かだし、この文章を見て分かるように非常にカオスになっておりエントロピーは増大傾向にあるのでこれを抑え込むのはやはりエネルギーが別途必要なのでしょう。

 

これからも反出生については考えていきますがこれは自分の人生の指針にはなりえないので膨大なパズルをやるような気持ちで行きたいと思います。かなり先になりますが特に反出生とヴィーガニズムについて書きたいですね。よく一緒に語られてますが案外この2つは対立してるのでは?と思ってます。

無気力な人にオススメな食事

復学したとは言っても気力に満ち溢れてるとは言い難い自分ですが、最近ようやく無気力な人は何を食べれば良いのか分かってきた気がするので書いておきます。

和食をメインにしない

これが無気力タイプの人が心がける事です。

最近は過去を切り捨てて前に進むとか、積極的な変化を求めていくみたいなのが流行ってますが、長年の習慣や伝統という物はそう簡単に切り捨ててはいけないと考えています。しかし、そんな僕でも伝統料理である和食はたまに食べる分には良いがメインにする必要は無いと考えているのは、伝統は多数派が作り上げてきたものなので、そこから外れてる人間にとって特段恩恵を受けるものでは無い事も多いからです。日本の歴史を見てみると案外血なまぐさくて武士の時代はもちろん、日清戦争日露戦争第二次世界大戦と割と近代まで戦争をしており、自殺率の高さなども考えると今でも特定の誰かや集団が別の誰かや集団を攻撃する事は続いています。要は日本人は争いが好きな傾向のある民族と言う事ですね。あまり民族的な傾向みたいな事を書くと昨今の流れでは叩かれそうな気もしますが、遺伝子的に違うからこそ人は分かりやすい部分では身長や顔が違うわけでこれを否定するのは無理があります。

話がそれましたがそのような民族である日本人の食事は(塩分以外は)ヘルシーと呼ばれるような和食です。こんな粗食でもあれだけ争いごとをしてきたのですから、和食は無法地帯にならないように気力を「下げる」働きをしてきたのでしょう。同じアジアの料理に注目すると中国も韓国も東南アジアも、少し離れますがインドもスパイスがたっぷり入った料理が多く日本とは状況が違います。スパイスは体を温めたり、頭をスッキリさせるような効果がありますが、日本以外のアジア圏の人はこれを食べる事で気力を「上げて」生活をしているわけです。

本題である無気力な人は、通常の日本では珍しいタイプなので伝統とか習慣に乗っかっても恩恵はありません。なので、ただでさえ無気力な人が気力を抑える和食を食べていくとマイナスとマイナスの相乗でとんでもない事になるでしょう。だから、同じアジア圏の人を見習ってスパイスが多い食事を心がける事で気力を補正してあげるのが良さそうですね。じゃあ何を食べれば良いかと言うと日本に近く古くから交流もある中国や韓国料理なんて良いのではないでしょうか。

個人的に韓国料理は唐辛子とダシダとニンニクさえあればそれっぽいものが出来るので好きですね。特に唐辛子を日常的に食べるようになってからは明らかに頭の冴えが良くなったので、ご飯にふりかけたりコーヒーに入れたりと色々試しています。

 

いつも以上に小学生みたいな作文。明らかに高校生の頃より劣化している…そもそも民族とか国とか○○人みたいな区分がはっきり整理ついてないなあ。これで区切る事が悪いとされてるけども血だのDNAだので見たら世界の各地域で違ってるのは当然だし今日本列島に住んでる多くの人が、平均的にはアメリカに住んでる人よりずっと小さいのは事実だ。概念的な平等と実際的な平等が違う事は分かるけども、これの区別がついていない人が多いからこそ変な話になるのだろうか。これって権利とかの話にもつながる。誰にでも東大に入れる権利はあるがこれは概念的な物であり、実際は家柄とか教育に恵まれた人が入りやすいのは事実だしこれが実際的な物だろう。