2留大学生(元)の考えている事

1浪・1留はたくさんいても2留以上は滅多にいない。珍しいこの存在がどんな事を考えているのか。

遂にニートになりました

2週間も更新をサボってすいません。

卒業論文の作成や、大学図書館が利用できる間に本を読んだり、引っ越しの準備で忙しくて放置していました。

さて、いよいよ大学を卒業できたわけですが、過去記事やプロフィールで書いている通り「留年生(特に多留)は身分上は大学生と言う社会的な存在であるが、実質は既に引きこもり状態と同じである」と言う考えは変わっていません。

まだ実家に戻ってきて数日ですが、学校に行けなくなり家に籠りきりで夜にこっそりスーパー行く生活をしていた不登校時期と何も変化がありません。

今後どうするか

 

多分、僕のように延々と「どうせ死ぬなら一切が無意味である」と考えてる人には、普通の人は「お前は現実を見てるつもりだろうけど、それは答えが出ないのだから無駄だし、時間の損失だからより良く生きるにはどうするべきか考える方がよっぽど現実を見つめている」と言うでしょう。しかし、その境地に至るには"死に対して理屈以外の物で蓋をする事が前提"です。それが出来ていないと、理性をより良く生きる方向に向けられるわけがありません。

残念ながら、僕はその理屈以外の部分が貧弱で上手く育ちませんでした。幼少期のどっちも弱い時代からバランスよく育てるべきなのに、理屈だけ肥大していき遂に理屈以外の部分を飲み込んでしまったようです。

親が死んだら自殺すると言う引きこもりや、現実味を感じられず暑い寒いや食欲すら分からなくなった引きこもりの方も僕と同じようになってると思います。

それでも

酷い時期にはライターで手を炙ってみるとかタバコを指で消してみるとかやってましたが、何秒間もやってると痛みがやってきて咄嗟に体を離すんですよ。毎度話してますが真冬の冷水シャワーも頭がキューとしてきて視界が一瞬霞んだりするんですが、あの瞬間は間違いなく理屈なんて吹っ飛んでます。

 

ryunen-daigakusei.hatenablog.jp

 

つまりは原始的で非常に未熟ですが理屈以外の部分もまだ残ってるわけです。いつどこで行われたかは覚えていませんが、お坊さんが抗議活動の一環で全身に火をつけて蓮華座を組んだまま焼死した事がありましたが、その境地からはほど遠いわけです。

瞑想をしていた時期もあり、カメラのフラッシュみたいに光ったり変な存在が見えたりを超えて、自分の消失や一切の感覚が消えたような状態に入れたことも2度だけありますが、どうやらこれですら序章終わり程度らしいです。

 

この経験から一切を捨てる道の難しさはよく分かったので、この理屈以外の未熟な部分を育てる普通の道を辿る事にしました。ゆくゆくは皆さんが普通に行っている、1984年で出てくるようなニュースピークの基本技「思考中断」と応用技「二重思考」を身に着けて矛盾を矛盾と思わない生き方をしたいです。これは煽りでも無く切実な思いです。1984年まではいかなくとも神がいない時代は必然的にあの世界に近づくので、あらゆる矛盾は人の手による二重思考によるスルーしか道が無いのです。

 

 また、怪文書になったのでいったんは切り上げます。次の記事で抱負を書きます。